僕が思う 今日と明日
― 僕の日常 そして遙か彼方にかすむ想い出の音 ―
あの日風が運んできたのは
潮の香りと一節のメロディ
寄せては引く波のように
近づいては消えていくその音は
今も僕の奥で
優しく 甘く響き続ける
そうだ
あれは僕の心をいまだ捉えて離さない
紛れもない恋の音だった
そうだ、恋の音。
・・・だったはずだが、果たして恋の音はこんなにもけたたましく耳に痛いものであっただろうか。
なんだろうこの、胸の高鳴りにも似た激しい頭痛を促すかのように、脳に直接振動を与える鐘の音は。
(ああ、もしかして結婚式のときに鳴るウェディングベルってこんな音・・・)
「・・・なわけないな、さすがに」
強引な理由をつけて眠りを続行しようとする頑固な睡魔を無理やり引き剥がすために、
鷹揚に伸ばした腕で枕もとの目覚まし時計を止める。
寝ぼけた頭を抑えながら、ゆっくりと体を起こして、まとわりつく眠気を退けるように思い切り背伸びをする。
真っ先に目に入るのは、昨日脱ぎ捨てた形のままで無残に床に散らかったシャツとネクタイ。
ああ、そういえば昨日は珍しく一日中外回りに出されていて、
疲れきった体でデスクワークを片付けてやっと家へと帰ってきたのは、
3時を過ぎた頃であったか。
音楽が好きだから、というごくシンプルで強い思いに突き動かされて、
今の雑誌社へと就職したのは今年の4月。
愛する音楽のために働きたいという情熱と、
それに見合う知識を認められ、念願叶って現在の編集部へと配属が決まった。
壁のカレンダーを見れば、今日は9月最後の日。
「あれから半年も経ってたんだな・・・」
ただただ目の前の仕事をこなすことで精一杯で、
ひたすらに走り続けてあっという間に時間は過ぎていった。
音楽を想い、夢に焦がれて、見えぬゴールの眩しさに目がくらんでいた学生時代は今は遠い。
「自分にとって音楽とは…」なんて、そんなことを自問する日すら少なくなった。
「と、まずいっ!遅れる・・・!」
ぼんやりとした頭を起こすためにシャワーを浴びて身支度を済ませ、
惰性で点けたテレビを見れば、いつの間にか出かける時間になっていた。
朝食を食べることを諦めて、昨日持ち帰ったままのバッグを手に家を出た。
一人前に物思いにふける余裕など、今はないのだ。
会社へと急ぐ今の僕に、夢の音は僅かにも残らない。
***
午後3時。
朝のあわただしさを何とか切り抜け遅い昼食をとったあと、
久しぶりに落ち着いて自分のデスクで昨日の取材で回していたICレコーダーを聞きながら文字起しをしていると、
不意に先輩社員から肩を叩かれた。
「おい、加地。編集長、呼んでるぞ」
「あ、はい!」
慌ててイヤホンをはずし、指された方角を見ると、奥の小さな会議室前で、
編集長が軽く手を上げているのが見えた。
席を立ち、早足でそちらへ向かい歩いていく。
そんな加地の背中をぼんやりと見送っていると、不意に別の同僚から声をかけられた。
「あれ、各務さん。今年のスタコン、各務さんが担当じゃないんですか?」
「ああ、編集長のご指名でね。あいつだとさ。いよいよ俺はお役御免ってわけ」
ふざけて大げさに肩をすくませて見せると、「またまた」とそいつは派手に笑った。
「なに言ってんですか。その代わり海外オケの担当になったって聞きましたよ。大出世じゃないですか」
素直に賛辞を送られて悪い気はしないのだが、なんだか素直に喜ぶことが出来ない。
事実、その同僚の言う通り一般的に言えば今回の担当移動は各務にとって出世以外の何ものでもないのだが、
感じている物足りなさはどうやったってごまかせないのだ。
「ま、でかいオケの担当も嬉しいんだけどな。あれにはあれの面白いところがあったんだよ。」
「…?でも残念ですね。楽しみにしてたじゃないですか。毎年」
「ははっ。ま、3年もやらせてもらえたことが今考えりゃありがたかったのかもね。もともとあれは新人の仕事だったわけだし」
「でも大丈夫ですかね、彼。かなり頑張ってますけど、やっぱ入社半年じゃ…」
なにやら本気で心配しているらしいそいつに、内心(人の心配してる場合かよ…)と悪態をつくが、表情に出さずにうまく隠す。
「大丈夫だろ。あいつ、結構優秀だよ。本当ならこんな弱小編集部に配属になるはずじゃなかったって話だし。
花形の週刊誌部門が欲しがってたらしいしな。」
「え、そうなんですか?そんなやつがなんでこんなとこに…」
「本人の希望だってさ。ま、いろいろあんだろ、あいつも」
「へえ…」
なにやら面白いものを見つけたとでも言うように、わくわくしながら会議室の奥を覗き込もうとするその様子を見て「しまった」と思う。
どうやら自分は余計なことを言ってしまったようだ。
「おら、無駄口叩いてないでさっさと上げろよ。それ、今日中に校正にまわすぞ。」
このままだと戻ってきた加地に突撃インタビューをかましそうな勢いの、好奇心旺盛なそいつに余計なことするなよと釘を刺して、仕事を再開させるべくデスクに戻る。
そうだ。たとえ担当が替わったとしても、自分の後任者となった加地に先輩として伝えることも山程ある。
コンクール担当者としての最後の仕事として、しっかり後輩に引き継がなければ。
そう奮い立ち、まずは資料整理からだと、詰め込みすぎた重い引き出しを整理することに取り掛かった。
***
小さな会議室で編集長から提示されたのは、1枚のチラシと去年の雑誌だった。
スターティング・ストリングスと書かれたそれは、来月行われるコンクールの案内だった。
「若手ヴァイオリニストのコンクール・・・ですか?」
「ええ、そうです。毎年この時期に行われているんですが、今年でもう20回目を迎えます。
それなりに歴史もあるし、若手の登竜門としては高い評価もされている。
出場者は25歳までの国内の若手ヴァイオリニストから選ばれた実力者ばかり。
なかなか見所もあります。」
そういえばそんなコンサートがあると聞いたことがあったな、とおぼろげな記憶を辿りながら、思い当たった知識を手繰り寄せる。
審査員に名を連ねるのは日本を代表するヴァイオリニストに作曲家、評論家に音楽会社の関係者など実に多種多様だ。
このコンクールが各界から注目されている証拠だろう。
「なるほど、確かに次世代を担う新しい才能を見つけるにはいい場所かもしれませんね」
「ええ、うちも毎年特集を組んで大々的に取り上げています。
これからの注目株が出揃ういい機会ですからね。」
雑誌をめくりながら、該当するページを指し示される。
その号の巻頭を飾る大きな見出し。
見開きで組まれた特集は、このコンクールの取り上げにかなり力を入れている証拠だ。
「では、今年も取材を?」
記事の文面を斜めに読みながら、当然イエスという返答が帰ってくるであろう質問を編集長へと投げかけた。
これだけの大きな特集だ、おそらく僕にも手伝うようにと指示が出るのだろう、とそう予想しながら。
ところが。
「ええ。そうなんです。昨年までは各務君にこの件を担当してもらっていたんですが…
今回は加地君、君に行ってきて貰いたいんです」
「え…」
思いがけない話に思わず、ページをめくる手が止まる。
聞こえた言葉に自分の耳を疑い、今一度聞き返そうとして顔を上げれば、穏やかに笑う編集長と目が合った。
加地の戸惑いを見越していたかのような態度に、動揺を隠し切れず控えめに尋ね返す。
「あの、私…ですか?」
「ええ。そうです。」
短く返されて余計言葉に詰まった。
普段の加地ならば頼まれた仕事に戸惑ったりせず、一も二もなく迷わず「はい」と答えることころだ。
しかし、今までの仕事の振り方とは明らかに今回は違っていた。
わざわざ会議室へと呼び出され、そしてコンクールの価値や記事としての重要性を説いた後での業務指示。
一人でひとつの案件を担当することは初めてだ、ましてやこのように大きな特集。
くどいとわかっていても、今一度尋ねないわけにはいかなかった。
「すみません、編集長。あの…、なぜ私に…?」
そうして尋ねられることがまるでわかっていたように、姿勢を崩さず穏やかな表情のまましっかりと加地の目を見た。
「入社したときの君の言葉を覚えていますか?」
「え?」
「あのときの君であればきっといい記事が書ける。だから、君に任せたいんです」
(僕の言葉…?)
質問に質問で返され、さらに頭が混乱する。
記憶を探りながらも、今回の件の発端であるはずの自身の発言とやらが何であったのか皆目見当がつかない。
果たして自分は何を言ってしまったのだろう。
編集長の態度からして、何かまずいことを口走ってしまったわけでもないのだろう。
いや、失言をしていたのなら今の今まで何のお咎めも受けていないことがおかしいのだから、それはないはずだ。
…であるのならば、果たしてなんなのだ。
うろたえた表情を浮かべたまま、視線をあちこちへ泳がせる加地に小さく笑い、
編集長はさて、と小さく声をかけて席を立った。
「コンクールは来週の金曜日です。それまでに各務君にいろいろと話を聞いておくといい。きっと参考になるでしょう」
心ここに在らずといった風情の加地を咎めるでもなく、まるでその様子を楽しむかのようにさらさらと話を続ける。
どうやら加地を苦しめている疑問を、この場で解いてあげようという気持ちはないらしい。
自分でそれを見つけること、それが課題だとでも告げるように驚くほどあっさりと話は終わった。
「いい仕事を期待しています」
最後にそう言って一枚のチケットを手渡す。
その仕草でハッと我にかえったように扉を振り返る加地を一人残したまま、会議室を後にした。