きっと、君は知らない

―どうか、この手が俺から離れていきませんように

「やり直し」

高価だがしかし華美ではない趣味のよい家具に包まれた整頓された部屋。
その中で一組の男女が机をはさんで、顔を突き合わせている。
しかし、そこで交わされているのは甘い恋人同士の言葉ではなく、そんなものとはおよそ縁遠い数学の公式ばかり。
彼、一ノ瀬蓮の正確で無慈悲な指摘の声に、ノートにペンを走らせていたヒトミは「ぐはっ」というなんとも形容しがたいうめき声を上げて机に突っ伏した。
そんな彼女の様子を見て、目を伏せて軽くため息をひとつ。

「お前、さっき俺が言ったこと聞いてたのか?」
「う〜…すみません…」

こうして蓮の部屋で勉強を見てやるようになって数ヶ月。
この3月に聖リーフ学園を卒業した彼と同じ大学に進学したいといって、猛勉強を始めた彼女は以前から学年でも成績優秀なほうであったが、いかんせん教科によるむらっけが多すぎる。
得意な語学や一般教養は良しとして、問題なのは理系科目だ。
苦手科目をどうにかして克服したいと話す彼女に、だったら俺が教えてやると専属の家庭教師を申し出たのが始まり。
「一ノ瀬さんが教えてくれるなら、怖いものなしですね!」と笑う彼女に、「お前が浪人でもすると、あとで俺にツケが回ってきそうだからな」なんてわざと意地悪く言う。 言外に「絶対に落ちるなよ?」というニュアンスを含ませて。
その微妙な含みに感づいた彼女が、引きつった笑みを浮かべていたことを思い出して、思わず笑いそうになる。


「一ノ瀬さん、どうしたんですか?」

そんな蓮の様子を見て、不思議に思ったヒトミが問題を解く手を止めて訪ねてくる。

「いや、悪い。何でもないんだ。それよりさっきの問題、わかったのか?」

まさか思い出し笑いをしそうになっていたなどと言える訳もなく、さらりと受け流して話題を変える。
チラリとノートを覗き込むと、どうやら先程からまったく問題は進んでいないようだ。

「えっと、実はさっきから微妙におなかがすいて…」

そこまで話したとき、タイミングよく「グ〜」とおなかの音がなる。
真っ赤になりながらエヘヘと笑う彼女に、今日2つめのため息をつきつつ立ち上がる。

「い…一ノ瀬さん?」

もしかしてこんな自分に呆れられてしまったのではないか、と不安げに蓮の見上げる彼女の額に軽くデコピンをする。

「そんな顔するな。貰い物のクッキーがあるからお茶、入れてやるよ」

手伝おうとする彼女に、「お前は問題解いてろ」と釘をさし一人キッチンに立つ。
彼女が買ってきたリラックス効果があるといっていたハーブティーを入れながら、先程のヒトミのおなかの音を思い出す。
(外見は変わってもあいつのああいうところは相変わらずだな)
1年前と比べればまるで見違えるようになった彼女。
彼女がそうなるきっかけを作ったのは蓮本人であるが、まさかここまで変わるとは正直思っても見なかった。
「一ノ瀬さんに似合う女の子になるために頑張ったんですよ」と以前彼女に告げられ、そのことをひどく嬉しく感じたのだが、その反面美しくなった彼女に言い寄る男が増えたことに不安を隠せない。
だからこそ彼女の中に当時と変わらない部分を見つけては、それに安堵している自分がいる。
まるで子供だな…と自分に笑いながら、お茶とクッキーを乗せたトレイをリビングへ運ぶ。

「おい、少し休憩…」

言いかけて、やめる。
手にはペンを持ったまま、テーブルに伏せて眠る彼女を見て音を立てないように静かにトレイを置く。
幸せそうなヒトミの寝顔に起こすのも気が引けて、そのまま彼女の正面に座りなおす。
(まったく、仕方ないやつだな…)
言葉とは裏腹にひどく優しい笑みをたたえて、蓮は彼女の寝顔を見つめた。
ノートに落ちた綺麗な茶色の髪を一房だけ手に取り、それを眺める。

あのときの蓮の本心に、彼女はきっと気づいていない。
勉強を教えるため、なんてただの言い訳でしかなくて。
本当はなんでもいいから一緒にいる理由が欲しかったのだ。
学校という共通の居場所を失うことが不安で。
自分が知らない彼女が増えることが怖くて。

一ノ瀬さんはいつも余裕そうに見えます、といつか彼女が言っていた。
その言葉を思い出し自嘲する。
(どこが余裕なものか)
たった一人の少女を自分の側に置くためだけにこんなにも必死になっている。
たとえその様がカッコ悪いと笑われようとも、もう今更あとには引き返せないのだ。
安らかに眠る彼女の指のリングに、そっと触れながら目を閉じて小さく呟く。

(どうか…)

どうかこの手が俺から離れていきませんように。

一度は手放しかけたこの大切なものを、もう二度と失わうことのないように。

そう願いながら、彼女の髪に口付けて静かに瞼を閉じた。
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