春に歌う
―世代を超えたバイオリンロマンスもありなんじゃないかと、ぼんやり思う―
「なあ、吉羅。おまえ今恋してるだろ?」
口をつけたコーヒーを思わず噴き出しそうになって、とっさに手で口を覆う。
注ぎたてのコーヒーがカップの中で、小さく揺れるているのを見てなんとか惨事を免れたことにホッと心を落ち着ける。
静かにカップを机のソーサーへと戻し、息をついてからソファでふんぞり返っている先輩をじとりと見やる。
「・・・突然なんですか金澤さん。頭でも打ったんですか。ああ、もしくは姿を見たものは一生不幸に付きまとわれる妖精の姿をした悪魔にでも取り付かれましたか。それはご愁傷様です。医者に行っても治らないと思いますのであしからず。」
理事長机に腰を落ち着けたまま、流れるように一気に皮肉を口にするこの部屋の主に、
金澤は頬を引きつらせながら、降参だといわんばかりにがくりと頭ももたげる。
「おまえ・・・ほんっと口悪くなったよなぁ・・・」
「金澤さんに言われたくないですよ。生きるために賢くなっただけです。」
椅子の肘掛に片肘を突いて、不適ににやりと笑う。
そんな男の姿を見て金澤の胸に、逆らうべからずの文字が浮かぶ。
口の達者な後輩であり上司でもあるこの男には、何年たっても勝てる気がしない。
それでも昔はもう少し可愛げがあった気がするのだが、いろいろなものに守られていた世間知らずなお坊ちゃまだったあの頃と、
理事長という立場になった今とでは、やはり変わらなければいけないことも少なからずあったのだろう。
ただでさえとっつきやすいタイプではなかった後輩は、以前にも増して近寄りがたい雰囲気を纏うようになった。
そのせいで言葉数の少ない吉羅は、どうも周りに誤解されることが多いらしい。
事実、学園分割問題のときはその突き放した物言いのせいで、天羽をはじめ他の生徒たちからもあまりよいイメージを抱かれていなかった。
絶対に誤解されているから、もう少し柔らかくしゃべったらどうだ、笑顔つきで。
などと忠告したこともあったのだが、「そんな必要は微塵も感じませんね」と一蹴された。
そんな吉羅が、ここ最近すこぶる機嫌がよい。
何か面白いものでも見つけたようで、なんだか少し浮き足立ってすら見える。
仕事をしていてもつま先で僅かにリズムを取っていたり、小さく鼻歌を口ずさんでいたり。
ときには理事長室の窓を開け放ち、外から聞こえてくる楽器の音に耳を澄ませていることもある。
さては何かいいことでもあったか?
と、軽く考えていた金澤だが今さっき気付いてしまった。
お気に入りのコーヒーを淹れて。
春に開かれる音楽祭のパンフレットを見て。
そして穏やかに微笑む。
ピンと来た。
―ああ なんだこいつ
「そういえば金澤さん。日野君がサックス奏者を探していましたよ。誰か当てはな・・・金澤さん?」
急に笑い出した金澤を不審に思ったのか、言葉を切って吉羅が訝しげに呼びかける。
しかし、こみ上げてくる笑いはどうにもこうにも収まらない。
―そうか この「女になんか興味はありません」って顔した朴念仁がねぇ
「あーあ、日野も大変だなぁ」
「ええ、ですから音楽教師である金澤さんに協力を・・・って、まったく。
聞いてるんですか?金澤さん」
笑い続ける金澤に呆れたように、吉羅がため息をつく。
いい加減笑いやまないとそろそろ怒られるだろうなと、わかってはいてもなぜかこの笑いを収めてしまうのが勿体無い気がして止められない。
さっきから一体何がそんなに嬉しいのか、楽しいのか。
自分でもさっぱりわからないが、なんだか懐かしくって歌うみたいに気持ちが弾む。
―よりにもよって自分の学校の生徒かよ こりゃ前途多難だな
「いいなー、春だよなぁ」
「そうですよ、もうすぐ春なんです。音楽祭も近いんですよ。
ですからふざけてる場合ではないんです。金澤さん!」
吉羅の怒った声を背中に聞きながら、廊下に響く予鈴に誘われて理事長室を後にする。
おそらく吉羅自身も気付いていないその気持ち。
それが今後どのように変わっていくのか。
慣れないバイオリンを持って、必死に吉羅の期待にこたえようと奮闘する少女の姿を思い浮かべて、世代を超えたバイオリンロマンスもありなんじゃないかと、ぼんやり思う。
「春もすぐそこ・・・か」