夢から醒めるための夢
― 行ってきます、と ありがとう、と ―
ねえ、もうわかったでしょう?
あの日消えてしまった私だけれど、
あなたが思うほど私は決して不幸なんかじゃなかったわ
音楽を愛して、そして音楽に愛されたあの日々は
私にとって、とても尊い大切なものだったのよ
もうすぐ終える命だと知っていても
それでもヴァイオリンを弾き続けることをやめなかったのは
音楽がくれた幸せに感謝していたから
音楽に出会えてよかった
ヴァイオリンを弾いてよかった
音楽を通してたくさんの人に出会えてよかった
数え切れないほどの幸せを教えてくれてありがとうって
そう思っていたからなのよ
音楽を愛することを、音楽に愛されることを
不幸だなんて思わないで
そして、どうかあなた自身を責めないであげて
罪の意識に囚われて人を愛することに臆病にならないで
ねえ、もう気付いているんでしょう?
今あなたの大切な人が誰なのか
私はそこにいないし
あの子は私じゃない
あなたがやらなければいけないのは亡き人の幻を追うことじゃないわ
ほら、しっかりしなさい?
もう子供じゃないんだから
これを期に 姉離れ、しなさいね?
ブラインドの隙間から差し込んだ朝の光で、驚くほど穏やかに眠りから覚めた。
夢の内容を一つ一つ辿りながら、ベッドの中でゆっくりと反芻して、深く息をつく。
(・・・この歳になって夢の中で姉に説教されるとは思わなかったな)
やれやれと小さく頭を振って、気を取り直してのそりと体を起こす。
すると、ぽたりとシーツを掴む手の甲に雫が落ちた。
信じられない思いで自分の頬にそっと手を触れてそこで初めて、自分が泣いていたことに気がついた。
思わず息を呑んで、そこで崩れるように手繰り寄せたシーツに頭を垂れた。
「はっ・・・・・・まったく、どちらが弟離れしていないんだか」
わざわざ弟の夢にまで現れて叱咤していった姉に小さく呟いて、机の上においてある写真立てに目をやる。
優しく、けれどいつもより力強くみえる姉の笑顔に負けないように、大きく息を吸い込んで声を出さずに口の端だけでにやりと笑う。
ベッドから降りて洗面台へいき、冷たい水で思い切り顔を洗う。
濡れた前髪をタオルで軽く拭き、ワックスを少し手にとって髪を整える。
クローゼットから取った糊の利いたYシャツを羽織り、鏡の前で手早くネクタイを締める。
ジャケットとキーケースを掴んで、ドアノブに手をかける。
そこで、もう一度姉の写真たてを振り返った。
「言われなくてもわかっていますよ。姉さん」
いってきます と、 ありがとう と。
そして、姉離れの意味をこめて、昨日までの自分に さよなら を告げて。
逸る気持ちを抑えきれずに、大きくドアを開けて部屋を出た。