夢から醒めるための夢
― 覚悟はいいか? 望むところです ―
駐車場に車を止めて、会場へ駆け込めば、すでに開演時間まであと15分程となっていた。
今日の音楽祭を楽しみに集まった人々でごった返すロビーを足早に抜け、関係者の受付から手続きをして出演者控え室へ向かう。
彼女の名前が書かれた控え室のドアを、逸る気持ちを抑えてノックする。
しかし、返答はなかった。もしやと思い、「失礼する」と声をかけながら控えめにドアを開ければ、すでに彼女の姿はなく、かわりにあったのは数え切れないほどの花束と手紙。
それは彼女に対する期待と評価の表れだ。
わずかな驚きとともに、なぜか誇らしい気持ちになった。
彼女は期待され、そしてそれに応えるために今舞台へと立とうとしている。
ヴァイオリンに触れたことすらなかった少女が、わずか1年でこんな舞台に立つことになるなど誰に予想が出来ただろうか。
アルジェントの我侭に付き合わされ、押し付けられるようにして渡された魔法のヴァイオリン。
意味も分からないままセレクションへ出ろといわれ、それでも投げださず、最後までやりとげた。
そんな義理など持ち合わせていないはずなのに。なぜ。
音楽に愛されて、音楽を愛して、そして音楽によって人生が変わってしまう。
音楽を知らなければもっと他の生き方も出来ただろうに。
そういう人をもう二度と見たくないと思っていたはずなのに。
それでも、もしかしたらという想いに逆らえなかったのは、学園の創立者の血のせいであろうか。
コンミスとなることを課され、今日まで必死に奮闘してきた彼女。
そして、それを仕向けたのは他でもない吉羅自身だ。
ならば。
不意に夢の中で聞いた姉の言葉がよみがえる。
気がついたときには、控え室を飛び出していた。
「吉羅さん、来てくださったんですね!」
出演者達が控える舞台袖。
その片隅で一人たたずむ彼女を見つけ、あがった息を整えながら足を向けると、気がついた彼女がゆったりと笑顔で振り返った。
正直、もっと緊張しておどおどしているかと予想していたため、その落ち着きぶりに目を見張る。
「・・・思ったより落ち着いているようだな。安心した」
「緊張はしています。けど・・・焦ってはいません」
そう応える彼女はいつもより大人っぽく見えて、思わず息を呑む。
返答に困って一言、「そうか」と言葉にすれば、小さく笑いながら「心配してくれてたんですか?」と返された。
「当たり前だ。私は君を巻き込んだ張本人だからな」
「ふふ、ほんと最初は何てこと言い出すんだろうって思いましたけど」
「だろうな、むしろ恨まれても当然だ」
「でも、今は感謝してますよ」
そういって迷いなくまっすぐ舞台を見つめる彼女は、凛としていて。
自分の心配が取り越し苦労であったと知り、ほっと胸をなでおろす。
そうして初めて自分のほうが緊張していたことに気付かされて、そんな自分に呆れながらやれやれと、壁に背を預ける。
冷静な気持ちを取り戻しながら、今一度彼女を見やれば、その横顔がうっすらと興奮で上気して赤く染まっていることに気付いた。
初めての大舞台だ。
そうであって当然なのだが、彼女の毅然とした姿の中にそんな初々しさを見つけて、吉羅の顔に思わず笑みが浮かぶ。
「吉羅さん?」
その様子に気がついた彼女は、不思議そうな顔をして吉羅を仰ぎ見る。
そんな彼女を横目でちらりと見やって、「さて」と言葉を切り出した。
「私は先日の就任式で理事長としてのスタートを切った。」
「・・・・え?」
「そして、今日この場所がプロのヴァイオリニストとしての君のスタートとなる」
「・・・・っ」
突然何を言い出すのかと、小首をかしげながら吉羅を見上げていたが、続いた「プロ」の言葉に思わず彼女の顔に緊張が走る。
「教育者と音楽家。
住む世界は違えど、どちらも一筋縄ではいかない世界であることに変わりはないだろう。
一見実力主義のように見えて、裏では様々な画策をめぐらされている。
この先、穏やかなる日々とは縁遠い人生が待っていることは火を見るよりも明らかだ」
なぜこんなときに、と思われるかもしれないが、「こんなときだからこそ」言っておかなければいけないのだ。
これは、彼女をこの世界に巻き込んだ自分の責任である。
これから彼女が舞台へ踏み出すそのわずか30センチの一歩は、彼女の人生を変える計り知れないほど大きな一歩だ。
その一歩を踏み出す覚悟があるのかどうか。
自分は彼女を導いた者として、その最後の壁にならなければいけない。
「脅すつもりはない。ただ、真実を述べたまでだ」
そうは言いながら、告げる言葉に労わりや同情はない。
壁から背を離し、ゆっくりと歩を進めて彼女と舞台を阻む壁になるように立つ。
舞台の照明のせいで、吉羅の影が彼女の顔に暗くおちる。
容赦なく与えられるプレシャーに、僅かに睫毛が震える。
「しかし、君はこの道を選んだ」
はっきりとした強い語調で、十分に間を持たせて言葉を切る。
正面からまっすぐ見据えれば、先程一瞬見えた動揺も今はその影すらみえない。
曇りない瞳を見つめながら、静かに問う。
「覚悟はいいか?」
「望むところです」
「結構」
君ならきっと、そう答えると思っていた。
迷いない瞳で、不適に微笑んで見せた彼女。
自然と深まる笑みが隠せない。
まもなく幕が上がることを知らせるスタッフの声が聞こえた。
体をずらして、舞台への道を明ける。
出演者全体に走るわずかな緊張とほどよいプレッシャーの中、まっすぐステージへ歩みだす君とすれ違った瞬間。
「いってきます」
静かにそう告げた君の背に、振り向かずに壁に背を預けたままの姿勢で、新たなプロヴァイオリニストの誕生を祝って言葉を送る。
「君らしい演奏を期待している。香穂子」